アートによる問題提起

世の中に何か伝えるのはジャーナリストだけではない。ましてや何かの現象について考えるのは研究者だけではない。
昨日のこと
知り合いが私の作品を観た。そして、パレスチナのことよくわからないと言ってた。私の作品は説明を多くしない。それは観た人が疑問に思い、調べ、理解し、行動することを想定しているからだ。私があれやこれや説明して、正解はこれです、と言うのは何か違う気がしている。これは観る人との信頼関係だとも思っている。
しかし、知り合いにこう言われた。
よくわからないから全部説明してよ、入植とか言葉聞いたことないし。宗教とかよくわからないよ。日本にいたら関係ないし、日本は植民地にもなってことないんだからさ。
日本にも米軍基地がある。これは植民地とは違うかもしれないが、本当に違うのだろうか?沖縄に行けばなお感じるが沖縄だけのことじゃない。
最近観た映画国境の夜想曲
この映画は説明がほとんどない。
多くて少ない情報から状況を想像し後に調べ、自分なりに解釈し、また逆引きのように調べ、できるだけ多角的な視点で問題を見たいと思った。そしてその先には自分の行動がある。
どう行動するか生きるか、それには自分で考えるしかない。
当事者ではないというのは被害者ではない、ということじゃなかろうか?それは間接的な加害者とも言える気がしている。

私の考えが全て正しいとは思わない。違う考えもあるし、私の見えていない視点もあるはず。だけど考えることを止めたいと思うことはない。考え続けたいし、それに伴って行動をしたいとも思う。
アートによる問題提起はそのスタート地点に立つためのきっかけ。